2015/01/13

死生観かわった

新年早々ではありますが、親戚に訃報がありまして。

仕事初めは嘘だったんや…という気持ちになりつつ、慌ただしく北上してまいりました。年末は「春先まで全然持ちますよハッハッハー」ってな感じだったんですけどね。そういう意味では覚悟してたんですけどね。やるせないですよね。

やっと振り返られる気持ちの余裕がでてきたので、
ちょっと今の気持ちなどをとりとめなく書き残しておこうかなと、
そんなことを思った次第です。



▼スカイマーク、飛ぶ。





▼雪やん!




現地は猛吹雪であわや飛行機も電車も止まってるんじゃねーのこれ……という感じではありましたが、日頃の行いの良さから、ピンポイントで飛行機が飛べるタイミングで晴れてくれるという空気読めてる感。

田舎での葬儀はぶっちゃけ初めて…というわけではないですが、この年齢になってから意識的に(かつ、執り行う側として)参加したのは初めてだったので、色々と思うところがありました。


▼死者は語らず、生者はかく語りき。

普段は顔も合わせないような親類から、隣近所のおっちゃんおばちゃんまで、いろんな人が来て、あーだこーだ言いながら、通夜からなにから参加しているんですよ。酒が出れば飲むし、こちらが用意した弁当も食べるし、出棺のときはぐずぐず泣いてるし、花は切り分けるし、果物は分配するし。

今までは「あー、知らないひと来てるな~」という感想だったんですけどね。
執り行う側のひとは「あー、知らないひと来てるな~」では済まなく。


あの人は町内会の○○さん。

総務をお願いしたあのひとはサークルの○○さん。

お酒をふるまえば故人との関係がどうだったか喋りだし。

お土産を持たせれば「お家にも線香あげに行きますわ」と言われ。

通夜の席では自己紹介のような話も出てくるわけで。

そうやって「故人と縁があったけど自分が知らないひと」がたくさん居て。



今までの自分の死生観のひとつで、ぐるぐると落ち着かない自分の気持ちを見つめ続けてどこかに着地させることがひとつの受け止め方だと信じてて。



 「故人の死を受け入れることは、
  亡くなったひとが居なくなった事実を受け止め
  自分の中で落ち着ける場所を見つけること。」



自分の気の持ちようひとつでどうとでもなると、ある種、冷静に自分を見られているなと思っていたので、どこか冷めていたというか、時間が解決してくれるというか、静かに故人の死を受け入れられると思っていたんですよ。

でも、ふと、葬儀がひと段落したときに気が付いたことがあったんです。



 「故人の死を受け入れることは、
  縁ある生きたひとを受け入れることと
  同義なのではないか。」



所縁あるひとそれぞれ思うことがあって、そんなひとたちが自分のあずかり知らないところで自分の故人の受け止めかたとは違うことを言っている。

それを自分に容赦なくぶつけてくる。

こちらに気を使って優しい言葉をぶつけてくるひとがいる。

悪気なく、ぶつけてくるひともいる。

デリカシーなく、ぶつけてくるひともいる。

そんな中、生きているひとが出来ることと言えば、
葬儀という故人を送るための儀式を、故人のためではなく生きている(残された側の)ひとのために執り行い、平穏な日々がすぐに戻ってくるように祈るくらいしかない。



故人の送り出しの希望は極力叶えてあげたいけれど、死者は何も語れない。

これは生活の知恵なんだ。

葬儀は死んだ人のものじゃない。
生きているひとが明日を生きるために行っているんだ。


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ここまでの内容をもとに、ホントは「終活コンサルタント」「地方の高齢化」「葬儀屋の今後」「寺と墓」なども関連して会話のネタとして展開されたのですが、ブログで書くにはあまりにも突拍子もない話になってくるので、今回は「大変だったなぁ……」と、若干不謹慎な感じで締めたいと思いますwwww

死者を受け入れるのは容易なこっちゃねー。

そんなことを改めて思ったのでした。